カナダの国民的な風邪対策サプリを生んだ科学者が、今度は偏見だらけの大麻を薬に変える
2026.08.29
スイスの山中で、パラグライダーで滑空していた2009年5月17日。
その日、フランツィスカ・クヴァドリ(Franziska Quadri)氏の人生は一変します。
事故で頸椎を3ヶ所骨折。
四肢麻痺となり、1年半を病院で過ごしました。
手足を動かせない身体で、退院後は24時間介助の生活が始まります。
スマートフォンも家電も、口で息を吸ったり吹いたりして操作する「ハウスメイト」という装置で動かしています。
そんな彼女が今、スイス医療大麻患者協会『メドカン(MEDCAN)』の会長として、政治家・保険会社・医師たち、そして時には連邦裁判所とも向き合い続けています。
<出典元>「大麻は、奇跡の薬ではないんです。痛みがなくなるわけではない。でも、痛みへの対処の仕方を変えてくれるんです」
事故から違法時代の大麻使用を経て、2022年8月1日、スイスの麻薬法改正に至るまでの道のり。
それは一人の元グラフィックデザイナーが、自らの身体と国の医療制度に「賭けた」記録でもあります。

事故当時、彼女はチューリッヒ在住のグラフィックデザイナーでした。
休日の趣味だったパラグライダーで頸椎を3ヶ所骨折し、手足の自由を失います。
入院中、車椅子で外へ散歩に出た際、他の患者たちがジョイント(大麻を紙で巻いたタバコ)を吸っているのを目にしました。
友人がインターネットで「痛みに効く、痙攣にも効く」と読んだと教えてくれました。
強い神経障害性疼痛と痙攣に苦しんでいた彼女にとって、それは希望の断片でした。
事故前から嗜好用に大麻を知っていたこともあり、入手には困りませんでした。
試してみて、彼女は驚きます。
「本当によく効いたんです。まさに私が探していたものでした。痛みを軽減し、体をリラックスさせてくれて。いわゆるハイになる感覚はありませんでした」
嬉しくてすぐに主治医に伝えました。
しかし2009年当時、スイスで大麻は違法。
医師の返答はこうでした。
「知っているけど、助けられない。自分でなんとかしなさい。警察と問題を起こさないように」
一方、処方されていた薬の副作用は深刻でした。
血栓症と塞栓症を発症。
従来の痛み止めや、痙攣に対する精神安定剤。
すべてが彼女の体を蝕んでいました。
「このまま薬を飲み続けたら死ぬと分かっていたので、生きるか死ぬかの問題だったんです」
彼女は違法を承知で大麻を購入し始めます。
罪悪感はありませんでした。
「これが自分に必要な薬だ」という確信だけがあったといいます。

事故後の日々は、痛みだけの問題ではありませんでした。
彼女は当時の内面をこう振り返っています。
「悲しみと怒り、頻繁に泣いていました。食事を拒み、慢性的な痛みが精神的な苦しみをさらに深めていました」
彼女の中には、消えない問いが渦を巻いていました。
「死んだほうがマシか、それとも希望の光を見つけるか?」。
「この状況で生きる意味はない」という感覚が、日々彼女を追い詰めていました。
その暗闇が動き始めたのは、事故から7年半後のことです。
「まるでスイッチを切り替えるように、私は意識的に態度を変えたのです」
年に一度、彼女は自画像を描き続けてきました。
時系列で並べれば、絵の色調は年を追うごとに暗色から鮮やかな色彩へと変化していきます。
心が「スイッチ」を切り替えた瞬間を、彼女はデザイナーの手で記録し続けていました。
そして、大麻で自らを救った実感は、いつしか彼女の中で「他の患者への使命」に変わっていきます。
2014年12月に『メドカン』は創設され、翌年に彼女は会長に就任しました。
「私のように黙っていない患者、公に出て効果や助けられた経験を語る患者がいることが大切なんです」
以来、彼女は政治家・医師・保険会社と対峙し、教育活動、情報発信、患者ネットワークの構築、そしてロビイング活動を続けてきました。
介助費用の公的負担を求めて連邦裁判所まで闘い、敗訴した経験もあります(24時間介助は、自ら資金を集めて2名の介助者を雇用しています)。
冬季には温熱療法のためにテネリフェ島で過ごすなど、身体と向き合いながら、闘いを止めない。
「私は解決策を重視する人間です。何一つ、不可能なことはない」
事故で四肢麻痺になり、絶望の底で「死ぬか、光を見るか」を問い続けた女性が、いつしか医療大麻の運動の中心に立っていた。
それが、彼女が「侍」たる所以です。

2011年、スイスの法律が最初に変わりました。
医師の特別許可があれば、大麻エキスを薬局から入手できるようになったのです。
そして2022年8月1日、麻薬法が改正。
すべての医師がオピオイドと同じように大麻を処方できる。
ヨーロッパでも先進的な制度が誕生しました。
『メドカン』会長として、クヴァドリ氏はこの改正を勝ち取った運動の中心にいました。
しかし彼女はいま、この「良い法律」に2つの決定的な落とし穴があることを訴え続けています。
スイスの医学教育に、大麻というテーマは存在してきませんでした。
法律が変わっても、処方できる医師を見つけるのは今も難しいのが現状です。
スイスで大麻を自己療法として使用している人は推定約10万人。
ですが2018年時点で、正式な禁止免除許可を持っていたのはわずか3,000人でした。
さらに、大麻を処方するには患者が「アウステラピールト(他の治療をすべて試し尽くした状態)」でなければならないという不文律も残っており、大麻は依然として「最後の手段」に押し込められています。
医療保険の支払対象外です。
スイスの薬局価格は2026年時点で、大麻フラワーが1gあたり8〜16スイスフラン(約1,500〜3,000円)、大麻エキスが10mlあたり125〜300スイスフラン超(約24,000〜55,000円超)が目安。
組成やTHC・CBD濃度で大きく変動します。
『スイス連邦公衆衛生局(FOPH)』の平均治療費推計は月300〜500スイスフラン(約55,000〜95,000円)ですが、『メドカン』会員の実感では、治療ニーズの高い患者は月300〜1,500スイスフラン(約55,000〜280,000円)、それ以上に達するケースも珍しくありません。
「システム自体は良いんです。でも医師が情報を持っていないこと、そして保険が助けてくれない限り、大麻は金持ちのための薬になってしまいます」
ただし個別に費用承認を勝ち取れば、例外的に保険が支払うケースもあります。
クヴァドリ氏は、傷害保険が費用を負担する数少ない例外の一人です。
医師から処方箋を得て、薬局から郵送で医療大麻を受け取っています。
「この変化が私の人生を根本から変え、かつての恐怖と不安から解放してくれた」
しかし、『メドカン』会員の多くは今も、保険がカバーしない場合に薬局価格を負担できず、違法市場に頼らざるを得ないのが現実です。
「良い法律」があってなお、患者が違法ルートを併用せざるを得ない。
それがスイスの現在地です。
だからこそ彼女は、他のスイス人患者のために闘い続けています。
彼女は他国の教訓にも目を向けます。
ドイツは2017年に医療大麻を合法化しましたが、2026年夏に財政問題と乱用懸念から規制を反転させました。
処方箋と保険支援を受けていた約6万5,000人の患者が、機能していたシステムを一夜にして失ったのです。
「大麻患者であることは、まだとても難しいのです」

大麻とどう向き合うか。
クヴァドリ氏の摂取方法は、この十数年で何度も変わってきました。
それは「医療目的で大麻をどう使うかを学ぶ道」だったといいます。
最初は嗜好用市場のやり方に従い、タバコと混ぜて吸っていました。
ですが医療目的にはふさわしくないと気づき、大麻のみの喫煙へと切り替えます。
燃焼による有害物質を避けるため、加熱して蒸気で吸うヴェポライザーへ移行しました。
自宅で抽出物を作るようになります。
しかしここで新たな問題に直面しました。
油分の多いエキスと、車椅子生活で運動できないこと、他の薬との併用が重なり、脂肪肝を発症してしまったのです。
「油っぽいエキスやカンナビスバターのせいで、肝臓にとても悪かったんです」
現在は、バッズ(大麻の花)を加熱で活性化させ、経口摂取しています。
エキスと違って全成分が保たれるためです。薬局と組んで、活性化バッズをカプセル化する計画も進行中とのこと。
「バッズにはさまざまな成分が含まれていて、バッズそのものを摂ればそれを失いません」

医療大麻を語るとき、クヴァドリ氏は「奇跡の薬」という言葉を明確に拒みます。
「私の場合、医療大麻を摂っていても痛みはあります。でも痛みとの距離をつくってくれるんです。痛みを別の見方で見られるようになる」
彼女は、大麻を「体のバランスを取り戻す薬」と表現します。
根拠は、私たち自身の体の中にあるといいます。
それが「エンドカンナビノイド・システム」。
人体には、大麻の成分と非常に似た物質を自ら生成する仕組みが備わっています。
この生体内システムがうまく働かない時、外から大麻を補うことでバランスを整えられる、という捉え方です。
「炎症にも効きますし、眠れないときにも、痛みにも効きます。この組み合わせが、体を落ち着かせ、平穏を取り戻し、睡眠を取り戻すことにつながって、生活の質を大きく向上させてくれるんです」
そして、身体だけでなく、心の受け止め方も変わってきたと彼女は語ります。
「2009年の事故以来、意識的に態度を変えました。私は今この瞬間を生きていて、他の人が持たないもの、時間を持っているのです」
大麻が痛みを消す魔法ではありません。
けれども痛みとの距離、痛みへの向き合い方、そして人生そのものへの態度。
そこに、他の薬にはない何かが宿っているのかもしれません。

医療大麻産業がグローバルに拡大するなかで、クヴァドリ氏が警鐘を鳴らすのは「業界も医療大麻を理解していない」という点です。
「業界は普通の薬のように考えていて、標準化された薬、標準化された製品をつくろうとしています。でも、それは患者が求めているものではありません」
患者が本当に必要としているのは、多様な品種 × 多様な摂取方法だと、彼女は言います。
『メドカン』が掲げる6つの主な要求の内、法改正後も未解決のままの領域は依然として多く残っています。
これらはすべて、患者が「1つの標準製品」ではなく、生活と症状に合わせた「選択肢」を必要としていることを示しています。
「大麻医療が持ち得る幅広い効果を本当に活かすためには、多様な品種、多様な摂取方法が必要なんです」

日本の医療大麻の現状について問われると、クヴァドリ氏の表情はいっそう真剣になりました。
「ヨーロッパでも、大麻患者であることはまだとても難しい。でも、日本はもっと大変で、ヨーロッパよりもさらに難しいということも知っています」
日本の患者の多くは、そもそも大麻を試したことがありません。
効果を「想像」する材料すら手元にないのです。
この構造的なギャップに対して、彼女は自分の体験からこう答えました。
「患者としてこれが効くと感じたら、黙らないでほしい。街に出て、人々に伝えてほしいんです」
「試してみる機会すら与えられない」ことに、彼女は繰り返し「本当に悲しい」と口にしました。
「スイスは小さな国ですが、良いロールモデルとなり得る国です。私の活動が将来、他の国の患者にとって役立つものになれば嬉しいです」
法律を動かすには、患者の「声」だけでは足りません。
声と、科学的なエビデンスと、教育と、連帯。
それらを積み上げていく作業に、彼女はいまも力を注いでいます。

事故前、彼女はグラフィックデザイナーとして働いていました。
事故後、絵を描くことは、彼女がすべてを乗り越えるための大きな助けになったといいます。
「怪我やすべてを乗り越えるのに、絵を描くことが本当に助けになったんです」
その後、彼女はデザイナーとしての職業活動を離れ、そのスキルを『メドカン』の活動へと振り向けました。
協会のクリエイティブ、患者へのメッセージ、社会への発信。
すべてがデザイナーの目と手を通して届けられています。
そしていま、彼女は次のプロジェクトに取り組んでいます。
本の執筆です。
「いつも頭の中にアイデアがあって、とてもクリエイティブで、いろいろな方法で自分の人生や経験を伝えるのが好きなんです」
パラグライダーで空を飛んでいた女性が、事故で四肢麻痺になり、違法時代に大麻を選び、患者団体を率いてスイスの法律を動かしました。
そして今日も、口で操作するスマートフォンから、政治家に、医師に、保険会社に、世界中の患者に向けてメッセージを発信し続けています。
「街に出て、人々に伝えてほしい」
彼女が最後に残した言葉は、日本の患者にも、そして業界にいる私たちにも、静かに突き刺さります。
| 項目 | 情報 |
|---|---|
| 団体名 | MEDCAN(Medical Cannabis Association Switzerland) |
| 設立年 | 2014年 |
| 代表者 | フランツィスカ・クヴァドリ(Franziska Quadri) |
| 所在地 | Kalkbreitestrasse 6 8003 Zurich Switzerland |
| 事業内容 | ・情報提供:医療大麻の使用法・効果に関する包括的な情報発信 ・医師・薬局ディレクトリ:処方可能な医師と、大麻薬を扱う薬局のリスト運営 ・患者ネットワーク:Telegramベースの情報交換プラットフォーム ・教育活動:講演・セミナー・イベント開催 ・政策提言:主要6要求(平等アクセス/保険適用/運転規制/自家栽培権/医師教育/CBD価格) ・患者事例の発信:多様な症状の患者ストーリーを公開 |
| URL | https://medcan.ch/en/ |

21世紀、大麻・ヘンプ産業という名のカオス。
この不透明な業界で、それぞれの立場から、業界の夜明けを信じて戦うプロフェッショナルたちがいます。
彼/彼女たちの共通点は、その魂に、日本の武士道にも通じる誠実さと勇気を宿していることです。
本シリーズでは、世界中の最前線で活躍するプレイヤーを訪ね、大麻侍が守り抜く「信念の形」を解き明かしていきます。
本記事は、世界の大麻ビジネスの実情をレポートするものであり、日本国内での違法薬物の使用、所持、栽培、売買等を推奨・助長する意図は一切ありません(THCを含む大麻製品は、日本の法令で厳しく規制されています)。